第2話
指輪の内側
厩で目を覚ますと隣の仕切りの馬が僕の髪を噛んでいた。
痛くはなかった。干し草と間違えたのだと思う。僕が起き上がると馬は興味をなくして自分の飼い葉桶に顔を戻した。
枕にしていたのは通勤に使っていた黒いビジネスバッグだ。この町に来てから一度も開けていなかった。開けたら何かが本当に終わってしまう気がしていたのかもしれない。三日目の朝になってやっと留め金を外した。
中に入っていたのは、黒いボールペンが二本と赤いのが一本。黄色い付箋の束。来年の分を買いそびれた手帳。それからスマートフォン。
スマートフォンの画面には電池の残りが二十三パーセントと出ていた。電波の表示は「圏外」だった。僕はしばらく待受の画面を眺めてから電源を切った。
手帳を開くと最後に書いた予定が目に入った。月曜の十時、係内打ち合わせ。今日が何曜日なのかもう分からない。
ボールペンを一本出してノックした。カチ、と小さな音がした。
昨日オルガさんにもらった紙の切れ端を膝に広げて、いちばん上の二つの形を手帳の空いたページに写した。上が開いた鉤みたいな字と、丸に短い棒が刺さった字。サク。僕の名前だ。
十回書いたら少しはそれらしくなった。ボールペンと手帳を上着の内ポケットに入れて、バッグを閉じた。
*
「墨が寝てるよ」
机に着くなりオルガさんが言った。
小壺の蓋を取ると、昨日はさらさらしていた黒い液が底のほうで泥みたいに重くなっていた。
「冷えると寝るんだ。冬の手前は毎朝これだよ。昨日はあんたが来る前にあたしが起こしといた。今日からはあんたの仕事だ。水を三滴。それから練りな」
渡されたのは骨を削った平たいへらだった。言われたとおり水差しから三滴落として、壺の底から墨を起こすようにへらを回した。
「音を聞きな」
初めはへらが重くてぐちゃりと鳴った。続けているうちに音が軽くなった。
「へらを上げてごらん」
持ち上げたへらから墨が糸を引いて落ちた。途中で切れて玉になった。
「まだだね」
もう少し練った。今度は糸が切れずに壺まで届いた。
「それでいい」
オルガさんは見ていなかった。へらの音だけで分かったらしかった。
*
昼前に組合の入り口が騒がしくなって、ディルクさんの声がした。
「おい、床が濡れるだろう。奥に行く前に絞れ」
奥の机までやってきたのは、頬にそばかすのある男の子だった。昨日の夕方にハンナさんの依頼票を板から外した子だ。袖が肘まで濡れていて、膝から下は泥だらけだった。首から下げた木の札が胸の上で揺れていた。
「代書のオルガさん、ですよね」
「そうだよ」
「受取を書いてほしいんです。指輪の」
男の子は握っていた手を開いた。ぼろ布の包みがあった。
「拾えたのかい」
「拾えました。底の泥の中にあって、手で探ったら」
そこまで言って男の子は僕を見た。知らない顔がいたので戸惑ったのだと思う。
「この人はあたしの目だよ」とオルガさんが言った。
「目……ですか」
「朔です」と僕は言った。「昨日からオルガさんの手伝いをしています」
「ピムです」
男の子は少しだけ頭を下げた。
「受取ってなんですか」と僕はオルガさんに聞いた。
「依頼人が品を受け取ったっていう書付だよ。それを受付に持っていって初めて仕事が済んだことになる。依頼人が字を書けなきゃ依頼票を書いた代書が受取も書く。代書代の三枚に入ってるんだ」
窓口でいえば、申請書を受け付けた係が最後の交付まで責任を持つようなものだと思った。
「ハンナさんにはもう知らせたかい」
「井戸から上がってすぐ。ブラム爺さんが洗い場まで知らせに行くって。おれは先にこっちに来ました」
ピムが言い終わるか終わらないうちにハンナさんが入ってきた。前掛けをしたままで、手の甲がまだ濡れていた。洗い場から走ってきたのだと思う。
「あの、指輪」
ピムが包みをハンナさんに差し出した。ハンナさんはそれを受け取ったのに開けなかった。両手で包んだまま立っていた。
「開けて、確かめてもらわないと」とピムが言った。「違ったら困るので」
「違わないです」
「でも」
僕はハンナさんの手を見ていた。指が布の結び目にかかったまま動かなかった。窓口で、亡くなった家族の住民票を取りに来た人がああいう手をしていたことがあった。
「僕が拭きましょうか」
ハンナさんがこちらを見た。僕は机の上の布切れを示した。
「井戸の泥がついているかもしれないので。拭いてからお渡しします」
「朔に任せな。目はいいんだ」とオルガさんが言った。
ハンナさんは少し迷ってから包みを僕の手に置いた。
布をほどくと、黒ずんだ輪がひとつ出てきた。銅か何かの、飾りのない太い指輪だった。外側を布でこすると泥が落ちて鈍い赤茶色が出てきた。内側にも泥が詰まっていたので、布の角を細くして指を入れて回した。
内側に何か刻んであった。
窓の明かりに向けると、細い溝で字が二つ彫られていた。最初の字は分からなかった。縦の線が二本あって、下のほうで外へ跳ねている。
二つ目は丸に短い棒が刺さっていた。
今朝、厩で十回書いた形だった。
「これ」と僕は言った。声が少しうわずった。「僕の名前のと同じ字です」
オルガさんが手を出したので指輪を渡した。オルガさんは顔に近づけるのではなく、親指の腹で内側をなぞった。割符を確かめたときと同じやり方だった。
「ルク」
「亭主の名前です」とハンナさんが言った。「刻んであるのは知ってたんです。なんて書いてあるかは、あの人が教えてくれたから」
それからハンナさんは僕を見て、初めて少し笑った。
「朔さんと半分おんなじですね」
この町の字を自分の目で見つけて分かったのはそれが初めてだった。半分だけだったけれど。
*
オルガさんは受取を書いた。短い二行だった。それからハンナさんの右手を取って、親指の腹を墨壺につけさせた。
「ここに押しな」
ハンナさんの親指が二行の下に押しつけられた。指紋の渦が黒く紙に残った。今朝僕が練った墨だった。
ハンナさんは前掛けの隠しから小さな布袋を出して、中の銅貨を一枚ずつ机に並べた。
「あなた、いくつなんですか」
並べながらハンナさんが聞いた。
「十五です」
銅貨を並べる手が一度止まった。七枚目だった。それからまた動いて、十枚になった。
「ありがとう」とハンナさんは言った。それ以上は何も言わなかった。
ピムは銅貨を隠しにしまって、受取を持って受付へ行った。僕は机から見ていた。ディルクさんは受取を読んでから、ピムの首の木札を裏返して腰の小刀で刻み目をひとつ入れた。
「これで四つだな」とディルクさんが言うのが聞こえた。「銅札まであと十六だ」
ピムは札の裏を指でなぞって、それから大事そうに襟の中へしまった。
*
午後、客が途切れたところでオルガさんが言った。
「書いてごらん。あんたの名前」
葦の筆を渡された。先を墨に浸して紙に下ろした。
一画目で墨がどっと出た。上が開いた鉤のはずが、黒い水たまりになった。
「つけすぎだよ。筆の先を壺の縁でしごくんだ」
二枚目は墨が足りなくなって途中でかすれた。三枚目は線が震えた。今朝手帳に書いたときは十回目でそれらしくなったのに、筆に替えたら一回目に戻っていた。
「今朝は、もう少し書けたんです」
「何で書いたんだい」
少し迷ってから、僕は上着の内側からボールペンを出した。カチ、と鳴らすとオルガさんの肩がぴくりと動いた。
手帳の端に丸と短い棒を書いて見せた。墨につけないまま線が続くのを、オルガさんは顔を寄せて見ていた。
「貸しな」
オルガさんはボールペンを握って、紙の端に何か書いた。迷いのない筆だった。葦で書くのとそっくり同じ形の字が、細い線で並んだ。
「墨はどこから出てるんだい」
「中に入ってるんです。細い管に」
「入ってるってことは、なくなるんだね」
「はい」
オルガさんは自分の書いた細い線を親指の腹でなぞった。紙にはボールペンの先が押しつけた溝が残っている。なぞる指がしばらくそこで止まっていた。
「細い線だね」
それだけ言って、オルガさんはボールペンを僕に返した。
ディルクさんが奥まで来たのはそのあとだった。僕がカチ、と鳴らすたびにオルガさんが肩をぴくりとさせるので気になったらしい。ボールペンを見せると太い指でつまんで何度もカチカチ鳴らした。
「墨壺いらずか。行商人に見せたら銀貨で買うって言うぞ」
「売らないよ」
答えたのは僕ではなくオルガさんだった。
「何本あるんだい」
「三本です。赤いのが一本と、黒いのが二本」
「なら、しまっときな。それがなくなったら、あんたは書けない男に戻るんだ。葦で書けるようになりな」
僕はボールペンを上着の内側に戻した。
*
日が傾くまで丸と短い棒を書いた。墨をつけすぎて、足りなくて、震えて、そのたびに筆の先を壺の縁でしごいた。紙は代書に使えない切れ端の裏だった。
何十回目かで、丸がちゃんと閉じて、棒がまっすぐ刺さった。
「書けました」
オルガさんはその紙を窓の明かりにかざして、ずいぶん長いあいだ目を細めていた。
「……まあ、字には見えるね」
ひとつ。三十一のうちのひとつだった。
片づけをしていると、受付のほうからピムが戻ってきた。昼に見たときより泥は乾いていたけれど、袖はまだ湿っていた。
ピムはオルガさんではなく僕の前に立った。
「あの、朔さん」
「はい」
「おれ、手紙を書いてほしいんです。家に」
ピムは上着の隠しを押さえた。昼にハンナさんから受け取った銅貨がそこに入っているのだと思った。
「今日の十枚、家に送りたいんです。手紙と一緒に。だから」
そこで言いよどんで、ピムは首の木札を握った。
「代書代に使っちゃうと、七枚になっちゃうんです」
感想
まだ感想はありません。