第1話

依頼票は字で書く

宵町 ろく2026/10/27 01:54公開4,416字

この町の字を僕はひとつも読めない。

 請負組合ハルネ支部の入り口には大人の背丈ほどの板が立ててあって、灰色の紙が何十枚も鋲(びょう)で留めてある。依頼票というのだと昨日の夜に教わった。荷を運ぶ。人を探す。畑を荒らす獣を追い払う。そういう頼みごとが一枚にひとつずつ書いてあるらしい。

 らしいとしか言えないのは、紙に並んでいるのが釘を折り曲げたような線と小さな輪の組み合わせで、どこで言葉が切れるのかさえ分からないからだ。

 金曜の夜まで僕は区役所の住民課で窓口に座っていた。転入届と印鑑登録と住民票の写し。四年やった。残業のあとの終電で珍しく座れて目を閉じた。次に開けたら夕焼けの下で干し草の山にもたれていた。それが昨日のことだ。

 言葉は通じた。通じるのに相手の口の動きと聞こえる言葉が少しずつずれている。吹き替えの映画を見ているみたいだった。どうしてそうなのかは分からない。分からないことが多すぎて、ひとつずつ驚いている余裕がなかった。

 街道を歩いて町に入り、明かりのついていた大きな建物に転がりこんだ。そこが組合だった。受付にいた熊みたいな男がディルクさんで、僕の話を聞いて(僕にも何が起きたのか分かっていなかったけれど)裏の厩(うまや)の空いた仕切りを貸してくれた。

「仕事が要るなら掲示板を見てくれ。雑用の依頼もあるからな」

 朝になってそう言われて、僕はいま掲示板の前に立っている。

 板の前で動かない僕を見て、ディルクさんが受付の台から身を乗り出した。

「どうした。いいのがないか」

「読めないんです」

「うん?」

「字が。ひとつも」

 ディルクさんは太い眉を上げて、それから声を出して笑った。笑い方に意地の悪さはなかった。

「そりゃ困ったな。字の読めないやつはこの町にも山ほどいるが、そういうのは仕事を取りに来ないで仕事を頼みに来るんだ」

 彼は顎で建物の奥を指した。

「あっちに行ってみてくれ。オルガ婆さんなら何か使い道を考えるかもしれん」

 組合の建物はもとは馬宿だったそうで、奥へ行くほど天井が低い。突き当たりの窓の下に机がひとつあって、白髪を後ろでひっつめた小柄な女の人が座っていた。机の上には灰色の紙の束と黒い液の入った小壺と、先を斜めに切った葦(あし)の筆。

 僕が前に立つと、その人は顔を上げずに言った。

「依頼かい。一枚銅貨三枚だよ」

「あの、ディルクさんに言われて来ました。仕事を探していて」

「あたしは人を雇うほど儲かっちゃいないよ」

「字が読めないんです」

 そこで初めて顔が上がった。黒目が薄く白んでいた。曇りガラス越しに僕を見ているような目だった。

「代書屋に字の読めない男を寄越したのかい。あの熊は」

「すみません」

「あんたが謝ることじゃないさ」

 その人は薄荷(はっか)の葉を一枚口に入れて噛んだ。それから書きかけの紙をこちらに向けた。

「この行はまっすぐかい」

 紙には字が三行並んでいた。一行目と二行目はきれいに揃っている。三行目だけが右へいくほど下がって、最後の字は紙の縁に触れそうだった。

「三行目が下がってます。右の端で指一本ぶんくらい」

「やっぱりね」

 小さく息を吐く音がした。

「近ごろ目が利かなくてね。字は手が覚えてるから書けるんだ。書いたあとで行が曲がってるのが分からない。曲がった依頼票は組合が受け取らない。見映えが悪いってね」

 その人は小刀を紙に当てて、曲がった三行目を細長く切り取った。そこに新しい紙を継いで書き直すのだろう。小刀を置いてから僕を見た。

「目はいいんだね」

「目だけは」

「なら目の代わりをしな。紙を押さえる。罫を引く。墨を練る。書いたのが曲がってたら言う。一日銅貨四枚と昼のパン。嫌ならよそへ行きな」

 黒パン一個が銅貨一枚で厩の仕切りがひと晩銅貨二枚だと、昨日ディルクさんに聞いていた。四枚あれば今日は生きていける。

「やります」

「名前は」

「柚木朔です。朔でいいです」

「サク」

 その人——オルガさんは紙の切れ端に葦の筆で二つの形を書いた。上が開いた鉤みたいな字と、丸に短い棒が刺さった字。

「あんたの名前だよ。これくらいは書けるようになりな」

   *

 最初の依頼人が来たのは昼前だった。

 前掛けをした三十すぎの女の人で、手の甲が赤くひび割れていた。近くに来ると灰汁(あく)のにおいがした。洗濯で暮らしている人の手だと思った。区役所の窓口にもこういう手の人が来た。クリーニング工場の夜勤明けの人たちだ。

「ハンナっていいます。東通りの」

 椅子に座るなりハンナさんは言った。

「井戸に指輪を落としたんです。拾ってもらいたくて」

「井戸の底の指輪を拾う、ね」

 オルガさんの筆はもう動きだしていた。迷いのない筆だった。字の形は分からないけれど、聞いた言葉がそのまま紙の上に流れていくのは見ていて分かった。

「報酬はいくら出すんだい」

「銅貨十枚……で、どうでしょう」

 筆がわずかに止まって、また動いた。

 僕は紙の端を押さえながらハンナさんの顔を見ていた。窓口にいたころの癖で、申請に来た人の顔はつい見てしまう。書類の欄がきちんと埋まっていても、その人が本当に困っていることは欄の外にあることが多かった。

「あの」

 声が出てしまってから出しゃばったかと思った。オルガさんは筆を止めて曇った目をこちらに向けた。黙れとは言わなかった。

「どの井戸ですか」

「東通りの共同井戸です。四つ辻の」

「共同の井戸に人が下りるのは、誰かに断らなくていいんですか」

 ハンナさんの顔がこわばった。

「……井戸番のブラム爺さんが。あの人うるさいんです。前に子どもが釣瓶で遊んだだけで怒鳴りこんできたことがあって」

「依頼を受けた人が井戸に下りようとして止められたら、どうなりますか」

 これはオルガさんに聞いた。オルガさんは薄荷をひと噛みしてから答えた。

「仕事にならなきゃ報酬は出ない。受けた方は無駄足だ。腹を立てて組合に文句を言う。依頼人の評判が落ちて、次に依頼を出しても誰も受けやしない」

「じゃあ先にブラムさんの承知をもらってきてもらったほうが」

「そうだね」

 オルガさんはあっさりうなずいて書きかけの紙を脇へ寄せた。新しい紙が一枚出てきた。

 窓口なら次は期限を聞く。

「いつまでに拾えればいいですか」

「霜が降りる前に。冬の雨が来たら井戸の水が増えて底まで届かなくなるから」

「いまは水が少ないんですね」

「一年でいちばん少ないです。だから、いまなら」

 ハンナさんの声が少しだけ早くなった。

「その指輪は」と言いかけて、僕は言葉を選び直した。「大事なものなんですね」

 大事でないものに銅貨十枚は出さない。聞くまでもないことだった。それでもハンナさんは前掛けの端を握った。

「亡くなった亭主のです。息子が十五になったら渡すつもりで、首にかけて持ってたんです。紐が切れて」

 オルガさんは何も言わずに書いていた。

   *

 ディルクさんを呼んだのはオルガさんだった。大きな受付係は奥まで来て話を聞き、太い腕を組んだ。

「井戸に下りる仕事で銅貨十枚か。正直に言うが、受けるやつはいないな。縄も灯りも自前で用意して、落ちたら命にかかわる。まともな冒険者なら銀貨一枚は取るぞ」

 銀貨一枚は銅貨二十枚だ。ハンナさんがうつむいた。

 報酬が足りないなら仕事のほうを軽くする手がある。窓口でもそうだった。書類を全部そろえるのが無理な人には、そろえなくても通る手続きを探す。

「縄と灯りを井戸番さんに貸してもらうことはできませんか。井戸の手入れに使う道具があるはずです」

「ある」とディルクさんが言った。「ブラムの爺さんは道具だけは大事にしてる」

「それに井戸番さんが上で見ていてくれるなら危なくないですよね。水がいちばん少ない時期で、昼間で。そう書いてあったら新人の人でも受けられませんか」

 ディルクさんは組んでいた腕をほどいた。

「木札の連中か」

「木札?」

「組合に入ったばかりのやつらだ。木の札を首から下げてる。あいつらは銅札に上がるのに片づけた仕事の数が要るんだ。安くても危なくなくて確実に片がつく仕事なら飛びつくぞ」

 オルガさんが鼻を鳴らした。笑ったように聞こえた。

「東通り四つ辻の共同井戸の底から指輪を拾う。井戸番の承知あり。縄と灯りは井戸番が貸す。昼のうちに。木札でも可。報酬銅貨十枚」

 読み上げながら彼女は書いた。筆は一度も止まらなかった。

「ハンナ。ブラム爺さんのところへ行って承知の割符をもらっておいで。爺さんは字が書けないから割符で足りる。持ってきたら貼ってやる」

「もう書いちゃったんですか」と僕は聞いた。

「先に書いとくのさ。割符が来なけりゃ貼らないだけだよ」

   *

 ハンナさんを待つあいだに昼のパンをもらった。黒くて固くてかすかに酸っぱかった。噛んでいるうちに少し甘くなった。

 ハンナさんは日が傾く前に戻ってきた。手に握っていたのは小枝を縦に割ったものだった。もう片方は井戸番が持っていて、二つを合わせると割れ目がぴったり合う。それが承知のしるしなのだという。

「怒鳴られました」とハンナさんは言った。「でも道具は貸すって。上で見ててやるって」

 オルガさんは割符を受け取ると、窓の明かりにかざして割れ目を指でなぞった。目で見るより指で確かめているようだった。それから小さくうなずいて、書いておいた依頼票を僕に寄越した。ハンナさんは前掛けの隠しから銅貨を三枚出して、机の端にそっと置いた。

 僕は罫の上に字がまっすぐ並んでいるのを確かめた。三行。どの行も曲がっていなかった。

 ディルクさんがそれを掲示板の目の高さに留めた。

 夕方、頬にそばかすのある男の子がその依頼票を板から外して受付に持っていくのを、僕は奥の机から見ていた。首から下がった札は木の色をしていた。

   *

 オルガさんは銅貨を四枚、僕の手のひらに一枚ずつ置いた。

「明日も来な」

 それから少し間を置いて言った。

「あんた、字は読めないけど話は聞けるね」

 窓口の四年間で僕が覚えたのは、たぶんそれだけだった。

「それと、これ」

 今朝の紙の切れ端がもう一度寄越された。僕の名前の二つの字の下に、似ているようで少しずつ違う形がびっしり並んでいた。

「この町の字は三十一ある。全部覚えたら半人前にしてやるよ」

   *

 厩へ戻る前にもう一度掲示板の前を通った。受付の上に吊られた角灯(かくとう)の明かりで、灰色の紙の並びが見えた。相変わらずひとつも読めない。

 板のいちばん右下に一枚だけ色の違う紙があった。灰色が抜けて黄ばんでいて、四隅の鋲には赤い錆が浮いている。まわりの新しい依頼票はその紙の縁ぎりぎりまで貼られていたけれど、上に重ねたものは一枚もなかった。誰かがそう決めているみたいに。

 近づいたのはその紙のいちばん下の行だけ様子が違って見えたからだ。そこだけ線が細くて墨の黒に見えなかった。

 上の三行はこの町の字だった。曲がった釘と小さな輪。

 その下に、墨ではない灰色の細い線で、別の字が書いてあった。

 かえりみちを しりませんか

 この町に来て、僕が初めて読めた字だった。

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